POSTED DATE : 2024年7月11日
2024年7月5日 滋賀県/びわこ成蹊スポーツ大学
びわこ成蹊スポーツ大学は、滋賀県大津市北比良にある琵琶湖の西岸に位置する日本の私立大学です。数多くの有名スポーツ選手を輩出しており、サッカーでは8年連続Jリーガーが誕生しています。
作家、スポーツジャーナリストでもある大学教授の城島充先生とは2012年、日本青年会議所の「人間力大賞」を受賞時、インタビューを受けて以来の付き合いです。
今回、彼の講義「メディアリテラシー」にゲストティーチャーとして参加させて頂きました。
びわスポ大生は僕のHPやブログ等で、歌や活動を事前学習してくれて、質問も考えてくれていました。
・活動のきっかけは?
・いじめ撲滅活動へのゴールは?
・人生で一番大切にしていることは?
・僕たちと同じ年の時、どんな人間でしたか?
など、小中学生とは一味も二味も違う、エッジのある質問をしてくれてました。
今回のレポートの課題(宿題)は僕の応援ソング「chan chan chance」を聴いて感じたことという内容でした。城島先生がマウンテンソング以上に最近聴いてくれていたので、今回の課題となりました。城島さんいわく
「ポールさん、チャンチャンチャンスはいろんな壁にぶつかって苦しんでる人たちにとっては最高のメッセージソングですよ。NHKのみんなのうたーとかに採用されてもいいと思いますよ」
今まで意識していなかった分、城島先生からの褒め言葉は心に響きました。
せっかくの機会なのでミニギターの弾き語りで聴いてもらいました。
以下はその後のLINEでのやり取りです。
「おはようございます。
みんな自分の人生に落とし込んで考えてくれている。
そしてこれからもそのチャンスを生かして成長しようとしている。
本当にみんなの感受性や、城島先生の着眼点に感謝です。
より一層、この曲を今後も大切に歌い続けていこうと思います。
私もほんと、何度も目頭が熱くなりました。
後期、また素晴らしい機会をいただけることを楽しみにしております。」
「いやあ、ちょっと僕もうるっとなるぐらい、みんながポールさんのメッセージをしっかり受け止めてくれたんだと思います。今回は急なオファーで申し訳ありませんでしたが、学生たちにとって最高の授業になったと思います。」
次回は後期、また素晴らしい学生たちに逢えることを楽しみにしています。
POSTED DATE : 2024年7月2日
旭川 女子中学生死亡“いじめが原因の自殺”認定
『旭川市の中学2年生だった廣瀬爽彩さん(当時14)は3年前の2021年3月、雪の積もった市内の公園で死亡しているのが見つかり、その後、いじめがあったことが認定されました。
しかし、市教育委員会の第三者委員会による調査では、死亡したことといじめとの関係性が明らかにならなかったことから、遺族の求めで新たに再調査委員会が設けられ調査が続けられてきました。
また当時、中学校はいじめではなく加害生徒による問題行動とだけ捉えて女子生徒への適切な対応を怠ったほか、市教育委員会も学校への指導や助言を怠っていたと指摘しました。
一方、女子生徒が亡くなったことについては「いじめ被害が過去のものとならず、継続して苦しみ、死を決意した」などとして自殺だったという見解を示し、死亡したことといじめとの関係性を初めて認めました。
その上で、女子生徒がPTSD=心的外傷後ストレス障害を発症し自殺に至るまでトラウマに苦しみ自尊感情の著しい低下なども続いたと指摘し、「いじめにあわなければ自殺は起こらなかった」と結論づけました。』(2024.6.30NHK記事より抜粋)
さあやさんがなくなってからいじめが認められる今日まで、この約3年3か月という期間がかかった。
本来子どもたちへの対応のプロフェッショナルな立場である教育者たちが、これはいじめ、これはいじめじゃない、と3年3か月もかけて議論すべきものだろうか。
いまだに日本のいじめ問題への対応の稚拙さを浮き彫りにしたと思う。
さあやさんのご家族の皆様へ心よりご冥福をお祈り申し上げます。
今後もこんな悲しいことがないように、微力ながらも、一人でも多くの子どもたちにいじめ撲滅・自殺反対への思いを伝えていきたいと思う。
POSTED DATE : 2024年5月22日
2024年5月21日 大阪府/豊中市立克明小学校
豊中市立克明小学校4年生(60人)90分講演です。
豊中市では平成25年(2013年)に子ども健やか育み条例をつくり、子どもの人権を大切にしながら、子どもがまわりの人から愛され、自分らしく健やかに育つことのできるまちをめざしています。その一環として出前講座の講師として今回訪れました。克明小学校では毎年声をかけてくださりありがとマウンテンです♪(以下は克明小学校HPより抜粋)
登天ポールさんは、写真のように社会からいじめの事象がなくなるようにというメッセージを歌にして、7か月かけて47都道府県を全国行脚された方です。途中石川県で、学校の子どもたちに聞かせてもらえないかと依頼を受けたことが、学校での出前授業のきっかけだったそうです。
5月21日、4年生の子どもたちが「登天ポール」さんの出前授業を受けました。
全国を旅してまわったときの心温まるエピソードも聞かせていただきました。
登天ポールさんの想いが心に響いてくる歌は、自然と子どもたちから手拍子が出ました。歌を聞いたあと、みんなはほっこり笑顔になっていました。
本校では、ここのところ4年生が毎年、登天ポールさんの出前授業を受けているとのこと。来年もまたよろしくお願いします、現在3生の皆さん、来年を楽しみにしていてほしいです。
みんなで踊った!
みんないっしょに「マウンテンポーズ」
決まりましたね!
POSTED DATE : 2024年4月16日
2024年3月17日 能登半島地震被災地へ(完)
能登鉄道の穴水駅前に「さわやか交流館プルート」がある。
震災前は図書館や交流スペースなど多目的な広場でにぎわっていたが、震災後は大規模避難所として今もな多くの人たちが避難生活をしている。
神戸を出発する前からプルート館長と連絡を取り、慰問コンサートの日程を調整していたので、ホワイトボードにはしっかりと登天ポールの文字か書かれていた。
館内アナウンスが鳴り響く。
「本日登天ポールさんによる歌と踊りのパフォーマンスがあります。ぜひ一階までお集まりください。」
後ろから70歳くらいの男性が話しかけてきた。
よく見ると親戚のおじさん、いとこのやっちゃんの父だった。
「まだがんばっとったんけ?」
「は、はい。おじさんこそご無事でなりよりです。ここに避難してたんですね」
地元の布団屋だったおじの家は一階がなくなる形で全壊した。やっちゃんから聞いていたが、地震の5分前までその家の中にいてトイレをしていたらしいので、まさに危機一髪で難を逃れた。
「生かされた命だったなわいね」
そう言ってニタッと笑った顔は、少年時代に見たときの笑顔のままだったので少し安心した。
コンサートはギターの弾き語りから始めた。
昭和の名曲、美空ひばり「川の流れのように」をみんなで一緒に歌った。
♪~知らず知らず歩いてきた細く長いこの道~
でこぼこ道や 曲がりくねった道~
地図さえない それもまた人生~♪
なんだろう、この感情は…
まだサビに入っていないのに涙が溢れそうになった。
参加のみなさんも同じような表情に見えた。
それは秋元康さんの歌詞があまりにも被災者の心境と重なり、Amのメロディーと一緒に心に伝わった。歌が心の傷を洗い流してくれているように感じた。
改めて音楽の力はすごいなと感じた瞬間だった。
その後、森山直太朗「さくら(独奏)」や千昌夫「北国の春」など季節や場所にちなんだ曲を歌い、僕はマウンテンソングを歌い踊った。
最後はみんなでマウンテンポーズをした。
しあわせマウンテンをめざして一日でも早い復興を願った。
NOTO ,NOT ALONE.
最後に館長にあいさつに行くと、受付台に貼ってある張り紙に目が留まった。
いいゴロ合わせだなと感心しつつ、時が流れても忘れてはならないともう一度心に呟いた。
PS.ここまで見てくれてありがとマウンテン。最後の写真は全国からボランティアに駆け付けた仲間たちとマウンテンポーズ。皆様ぜひ能登を忘れないでください。よろしくマウンテン!
POSTED DATE : 2024年4月6日
2024年3月17日 能登半島地震被災地へ04
寒さが残る3月午前の奥能登、輪島。
三井小学校正門玄関前特設ステージは多くの人々によって囲まれていた。
卒業生や保護者の方々をはじめ先生方や関係者の皆様が手拍子を送りながら僕を待ってくれていた。
まずは皆様へ向けて深く一礼をした。
この震災で無事卒業式を迎えることができておめでとうという気持ちとこのセレモニーに呼んでくれた感謝の気持ち、そして音響の不具合によりお待たせして申し訳なかった気持ちとが混ざり合った一礼だった。
一曲目は新曲「welcome to MUSIC」と決めていた。
この約2か月半の被災生活、老若男女問わず皆生きるために必死だったことだろう。
特に輪島地区は大火災、津波、いまだに水道が通っていない現状があり、心身はもちろんのこと五感も疲弊していることだろう。あたらめて音楽の力でこの茶色と灰色の世界をカラフルに彩ることができたらなという思いがあった。
welcome to MUSIC
立ち止まらないで そのまま
welcome to MUSIC
自分のメロディー 歌うのさ
愛も 孤独も 飲み込んだくやしさも Change to your song!
すべては美しい旋律となって あなただけのプレミアムメロディー
約20分間のステージが終わった。
後ろで見てくれていた年配者の方々も、最後まで手拍子をしてくれた。
終始アットホームな雰囲気に感じたのは、夏祭りで知ってくれていたことだけではなく、僕の両親も奥能登出身でこの細胞ひとつひとつがmade in 奥能登だということもあったように思う。
終わった後、卒業生児童たちが僕に駆け寄ってきてサインを求めてくれた。
「ここに書いてほしいです」
記念品だろうか。一人の卒業生がおろしたてのTシャツを持ってきて、胸の正面に書いてほしいと言うのだ。後で後悔しないだろうかと思ったが、大切にしてよと勢いのまま大きく書いてみせた。それを見た他の卒業生も続くようにTシャツを持ってきた。
片づけをしていると、卒業生たちがまた来てくれた。
なんとみんなが先ほど書いたばかりのサイン入りTシャツに着替えているではないか。
正門特設ステージでみんな並んで一緒に記念写真を撮った。
写真の中の僕たちはこれまでのことをすべて忘れさせてくれるほど眩しい笑顔だった。
POSTED DATE : 2024年3月28日
2024年3月17日 能登半島地震被災地へ03
輪島市立三井小学校の卒業記念セレモニーは午前中に行われる。
セレモニーの会場となる体育館は震災の影響で使用できず教室となり、僕のステージは正門玄関前でお願いしますとなった。しかしなにやら進入禁止のコーンが置かれている。右側半分に校舎の壁が剥がれ落ち、コンクリートの塊がまだ撤去されず残っている状態だった。
『みんな僕のことを覚えてくれているかな~』
僕は卒業生たちが正門で記念撮影するために出てきたタイミングで、サプライズで登場し歌いだすといった流れだった。
近年コロナの影響で、毎年恒例となっていた夏まつり「三井の里フェスティバル」に参加できず不安になかったが、今は卒業式の晴れ舞台に花を添えることができるように一生懸命にパフォーマンスすることだけに集中しリハーサルを始めた。
控室となった放送室で衣装に着替えた僕は、ドキドキしながらその時を待っていた。
廊下から卒業生の声が聞こえた。
しかし、数分たってもなぜだか一向にお呼びがかからない。バレないようにそっと廊下へ出て、正門の外を覗いてみると、音響担当の山本君がなにやらそわそわしているではないか。
あれだけリハーサルしたスピーカーから音が鳴らなかった。
出ていきたい衝動を抑え、もう少し我慢して待っていると、もう山本君の顔がまるで冬の日本海のように荒れ、白波が立ち、次第に青ざめていく様子が見てわかった。しかもこともあろうか、しびれを切らした学校関係者が「と、と、とうてんポール、来てます!この後登場します!」とシャウトしているではないか。
『終わった・・・』
神戸から輪島まで約500キロ。
三井小学校卒業生たちがまさかと驚き、歌いだすと同時に喜ぶ顔を夢見て、ただひたすら真夜中の名神・北陸高速道路を飛ばしてきたシーンが走馬灯のように浮かんでいた。
POSTED DATE : 2024年3月28日
2024年3月17日 能登半島地震被災地へ02
今日は日曜日というのに、輪島市の街中は人通りがほとんどなかった。あんなにぎわっていた観光地のイメージしかなく、その時点で違和感を感じていたが、道路にはみ出すように倒壊した家々がここが能登半島地震の被災地ということをまざまざと見せつけ人々を寄せ付けないオーラを放っていた。
大好きだった輪島朝市のメイン通りは、まるで爆弾が落とされたように焦げ茶色の瓦礫の世界に変わっていた。
何度かテレビでは見ていたが、実際に目の前にした光景と少し鉄くずが焼けたような匂いに圧倒されて体が反応しきれていない。
何分か立ち尽くした後、奥能登の冷たい風を感じて、ようやく足を前に出した。
大好きだった永井豪記念館はどの辺りだったか…
おそらくこの辺りにあったと思われる場所に、焼け焦げた看板に「永井…」の文字が見えた。
約10年前の夏の夜、永井豪記念館の前でライブした思い出がよぎる。
みんなで歌い、踊った、蒸し暑いあの輪島の夜の光景が、今はもうなくなったんだと、目の前にはもうない現実を受け止め、初めて悲しさを嚙み締めた。
大阪から同行した友人の山本君も、同じく言葉を失っていた。
POSTED DATE : 2024年3月21日
2024年3月17日 能登半島地震被災地へ01
2024年1月1日に起きた能登半島地震。
あれから約2か月半。
被災地の児童、学生たちも卒業式の季節を迎えました。
輪島市三井町の子どもたちは元気にしているのだろうか。
毎年行われる夏祭り「三井の里フェスティバル」にいつも呼んでくれて、大人も子どもたちもみんなで一緒にマウンテンポーズをした思い出を懐かしみ、安否を気遣っていましたが、なかなか行動に起こせずにいました。
自分に何かできることはないか…と模索しているところ、一本の電話が鳴りました。
「子どもたちの卒業記念式典にサプライズゲストとして来て歌ってもらえないだろうか?」
三井町の公民館の館長からでした。
他の仕事との調整もあり、スケジュールを確認しますと一旦電話を切ったが、すでに心の中では決まっていました。
POSTED DATE : 2024年2月16日
2024年2月11日 香川県/人権教育研修会
高松市で人権教育研修会が行われました。
最新の人権感覚を磨こうと香川県在住の先生方や市職員等、約70名が集まりました。
一部では人権のために活躍した偉人やアーティストの歌、絵本等、多ジャンルにわたる人権研修が行われ、命の尊さを改めて学びました。
二部では人権コンサートと題して、約20分の貴重な時間を頂き、トークと歌を披露しました。
トークでは今年元旦、ちょうど能登の実家に帰省した時に起こった能登半島地震の経験を話しました。かろうじて、こうして助かった命のありがたさ、またもしも明日命が絶えようをしたとき、自分は後悔しないだろうか、毎日を精一杯生きていきたいと思う気持ちを歌い、ギター弾き語り曲「命輝かせながら」を歌いました。
また今月は世界でいじめ撲滅の象徴イベントとして定着している「ピンクシャツデー」にあたり、この高松人権研修会のメンバーで制作した「WE ARE THE FAMILY ~いじめ反対のうた~」を歌い、いじめ撲滅の思いをひとつにしました。
最後はしあわせな未来へ願いを込めて「マウンテンソング」をみんなで歌い、山のポーズで笑顔で終わりました。
会長の石原先生が体調面もあり、今回で最後回とことになりました。
本当に寂しいですが、長い間お疲れ様でした。
また機会があることを願っています。
POSTED DATE : 2024年1月11日
両親が能登出身
両親が能登出身です。
父は能登町、母は穴水町出身。奥能登の者同士、お見合い結婚をしました。
その後、仕事で父母は神戸へ。三人の子を産みました。
毎年、お盆と正月に能登へ帰っていました。
神戸~能登の約500キロの道のりを、家族5人、狭いセダンの車で兄弟げんかをしながら、祖父母がいる実家へと帰っていました。
夏はカブトムシ、冬は雪合戦、能登の田舎に帰って遊べる喜び半分、渋滞や大雪による交通規制、移動時間の長さなどで嫌な気分半分。
どんなときも父は父は子を連れて能登へ帰ることをしました。
おかげで、能登は僕のふるさとです。
2024年1月1日午後4時10分も僕は能登にいました。
家族で外へ買い物に出かけていたので、実家にはおらず命は助かりました。
現在も母は兄のいる野々市市へ避難生活をしています。
実家が今どんな状況なのか、まだ帰れていなのでわかりませんが、ただただ、今生きている現実こそが奇跡という実感です。
現在、まだ安否確認ができていない人々や避難生活を送っている能登地方のすべての方々へ、少しでもよいニュースが届くように祈っています。
捜索活動してくれている皆様、ボランティア、政府の皆様すべてに感謝します。
落ち着いたら、微力ですが自分ができる範囲でチャリティー活動を行いたいと思います。
心は能登に。
いつも心にマウンテン